広辞苑によると、
- かん-じゅ【甘受】
- さからわずに甘んじて受けること。
広辞苑第四版より (抜粋)
とある。
こういう例外がある、必ずしもそうではない、といった反例提示型の反論は無視すればよい。相手が自分を、そんな例外も考慮に入れずに話している浅はかな人間だと判断しているわけだから、相手の頭の悪さを哀れみ、それ以上に、誤解させてしまった自分の至らなさを恥じなければならない。
さらに症状の重いものがある。引用論理飛躍義務疑問型の反論だ。これも無視すればよい。この反論形式が用いられた時点で、議論は破綻している。具体例を挙げる。
という主張に対して、
と反論する。「無視してはならない」がいつの間にか「使ってはならない」になってしまった。驚くべきことに、実際にこういう人間がいる。複数いる。突然このような反論をすれば誰であれ違和感に気づくけれども、
と、論理的飛躍(あるいは曲解)に基いた要約を挿入することで、論理的妥当性が保たれているように錯覚させることができてしまう。議論している両者が揃って思考力が低い場合、このまま議論が進行する。末期である。あるいは、
最低である。自分の見解が明らかであるにもかかわらずこれを表現上伏せ、突然必要以上に客観的な形式的譲歩をみせる訳だ。方法論として姑息である。これ以上の議論は徒労である。
重要な点をいくつか挙げる。
いずれも相手に対して失礼だ。上に挙げた二つの反論形式は、かなり明確に定型化しているため習得が容易である。誰でも使えるのである。これを使うと、目の前にいる相手とでなければ成立しない、あなたでなければだめだ、という議論にならないのである。私はコンピュータと議論をしたいのではない。人間と議論をしたいのだ。