「飯を食う」という表現を批判する。野蛮だからである。
同じ意味をもつ表現に、「食事をする(いただく)」「ご飯を食べる」がある。こちらの方が表現として美しい。また、配慮に満ちている。よってこちらを用いるべきである。
米屋や飲食店に代金を支払った途端に尊大になる神経も批判する。私が百姓屋の孫である時点で公正な判断ができていないのが残念だ。しかし、祖父に米代としていくらのカネを支払ったとは言え、「飯を食う」などと言って欲しくないと思う事実がある。感謝の心はどこへ行った。祖父へ、米へ、自然へ、神へ。
私が小学校に上がるか上がらないかの頃である。15年ほど前である。まだ日本に優しさと譲り合いがあふれていた頃である。自由を主張しなくても自由が厳然と存在していたあの時代のことである。幼馴染の友人たちが「飯を食う」と言っているのを知っていた。我が家ではその表現が避けられているようであることに気づいた。試しにある日の昼、祖父の耳に入るところで母に、「飯、まだ?」と訊いてみた。祖父は激昂した。滅多なことでは声を荒げない祖父が怒鳴った。幼い私に論理的な説明などなされるはずがなかった。けれども私は、祖父の怒りを理解した。論理的に説明されて初めて理解できるような難解な命題ではないのだ。祖父は優れた感性をもっていた。私はこれを理解した。
表現の自由を批判する。表現の自由云々という理屈でもってこの批判を批判する行為を批判する。表現の自由とか何とかいうよく分からないものが日本にあるらしいことは知っている。私がそんなことも考慮に入れずに「飯を食う」批判をしていると思い込む大脳があれば、これを批判する。
最も重要で最も明らかな点が一つある。
意味するところは即ち、「確かにその通りなのだけれども、自分の立場を考えて発言していますか。」である。議論においてこの種の情状酌量は禁物である。相手の立場・状態がどうであれ、反論は反論として扱わなければならない。
「吉牛コピペ」で有名になった新爆氏の日記サイト、「 Not Found 」の 2001年6月19日付の日記 にあった言葉。