ある観念を言語化した、広く一般に通用する単語が既に存在するならば、それを用いるべきだ。理由は一つである。個々人が単語レベルで独創性を競うと、検索の障害に直結するからだ。独創性は表現の段階で競えばよく、単語は共通のものを使うべきだ。慣例というのはそれだけで価値のあるものなのだ。同じ理由から、極端に略語を用いたり、逆に極端に正式名称で呼称するのも避けるべきだ。併記するなら問題はないが、どちらか一方であると、検索結果から漏れることになる。アクセス数はどうでもよろしいけれど、これが罷り通ると、ウェブの信用を失墜させることになる。また、文化の発展を阻害することになる。
引用の際の換言の危険性について考察すること。
2003年11月22日の文書「『飯を食う』を批判する」で、「飯を食う」という表現を、配慮を欠いたものであるという理由から批判した。しかし私の中に矛盾がある。葛藤がある。その一つを告白する。
例えば中華料理店で炒飯(チャーハン)が食べたかったとする。しかしその店のメニューには「炒飯」の文字に「やきめし」とルビが振ってある場合がある。これは悩む。店の意思を尊重したいと思い、私は結局「やきめし」と言う。言う度にこれでよかったのかと自分に問う。特に店内に子供がいる場合などは、店には無礼だと思うけれど、なお「チャーハン」と言った方がよいのではないかと考える。
子供に罪はないのだ。言語形成期にある子供に、その言葉の辞書的な意味以上の意味を推し量ることはできない。仕方のないことだ。聞いた言葉をそのまま記憶し、使うだろう。私たちは、ある言葉が、どういう場合に適していて、どういう場合に避けるべきかを経験的に知っているから問題ない。子供たちは「飯」がどういう印象を与えるかを知らない。知らないまま大人になったなら、そのまた子供に教育のしようがない。私たちが経験的に知っているのは、教育してくれる先達がいたからだ。あるいは何か考えがあって、私が批判するような言葉を遣うのならよい。考えなしに言葉を使うと大変なことになる。思慮のない言葉が今日の少年犯罪の増加にかなりの影響を与えている。それは親の責任であり、学校の責任であり、社会の責任であり、私たち一人一人の責任なのだ。
極論。些細なことを気に留めないのも度が過ぎると短絡的になる。短絡的になって人の命を奪うなら、些細なことを気に病んで自殺してしまった方が、まだ、平和である。
運転免許試験センターの壁に貼ってあった標語。
この手の論法は非常に多い。過去の事実から傾向を抽出し、それに基いて未来を予測することそれ自体は自然な行為だ。しかし上の例では論理的飛躍がある。状況は常に変化するという点、現在が例外的な状況にある可能性がある点、あるいは判断材料としている過去の事実が例外的である可能性がある点、などの視点が欠落している。普遍的な解はそうそう簡単に導けるものではない。世界はそんなに単純ではない。一つ一つの事象を丁寧に考察していくほかないのではないか。
この意味で、ある問題を解決するために例を用いて論じるのも危険である。A と B について論じているとき、理解を助けるとは言え、C と D に置き換えて論じるのは危険である。そこで了解が得られたとしても、それは C と D に関する了解なのであって、本題の A と B についての了解ではない。換言や要約は適切に行われなければならない。議論が破綻する要因の第一位は、不適切な換言・要約による論理の飛躍・ねじれであろう。
高校三年のときにお世話になった先生にお借りした本の内容が思い出されたので次に示す。著者は高田瑞穂先生(故人・著作当時成城大学教授)。書名は『新釈 現代文』(絶版)ともう一冊(絶版)であるが失念。表現も記憶によっているので一言一句正確ではない。
芥川龍之介がある作家(谷崎潤一郎だったと記憶しているが、曖昧)とのやりとりのなかで、自分の表現に対する理念として、フランスの詩人(フランス人であることは確か。詩人であったかどうかは曖昧)の言葉を引用して次のように主張している。
ある動作を表す動詞はただ一つしかなく、ある状態を表す形容詞はただ一つしかない。
高田瑞穂先生の著作より (要約)
表現の正確性を追及することは重要だという想いを強めた。疲れることではあるけれども。
アメリカのイラクへの攻撃についての恩師の言葉。「だからあれは正義とちゃうねん。」と続く。
「うちでならいがそとででる」。曾祖母の口癖。母親からの伝聞。家の中での行いが外でも出る・そのときだけ直そうとしても直せない、の意。
似たような言葉に、「習い性となる」「三つ子の魂百まで」などがある。
友人から反論があった。次のようなものである。彼は大阪府で育ち、いわゆる大阪弁を話す。言葉の抑揚やリズムも大切にする人である。
方言では、「食べる」よりも「食う」の方が抵抗なく話しやすく、聞きやすい場合があるので、一概に批判はできないのではないか。
「『飯を食う』を批判する」に対する友人の反論 (要約)
私の批判にはこの観点(方言)がまるで欠如していた。この反論は正当なものだと思う。
私が言葉遣いを論じる際の中心となる発想が文字になっていなかった。失礼した。即ち、次のようなものである。
この想いには彼も同感だそうだ。