茶髪や金髪を粗雑そうだと思うのは差別で、黒髪を真面目そうだと思うのは差別ではないそうな。そういう一貫性のない主張をする人間が茶髪であることが多いから、私は茶髪を馬鹿だと思い込んでしまうのである。私は会話や文章で「馬鹿」という意味で「茶髪ども」と表現することがある。「文化の衰退を危惧しない救いようのない人」という意味で「チェケラーども」と表現することがある。割合を鑑みると、そう表現するに足ると思えるからである。
ここで言う「髪の毛の色」は、すべて日本人について言ったもの。生まれつき黒でない色の髪について述べるものではない。こういう文脈で、日本国籍の外国人の場合はどうなんだと反論することを屁理屈と言うのである。「日本人」とは常に「日本国籍の人」ではない。ここでは、生まれつき髪が黒いという点に絞って「日本人」と定義している。ここでは。
と言ったのは、記憶が正しければドナルド・キーン博士である。よく見ていらっしゃる。その通りだと思う。しかしこういう、欧米諸国と日本との相違点を見出だし、「だからここを変えて欧米に倣おう」という風潮が多くて閉口する。相違点は相違点である。欠点でも短所でもない。罪の文化と恥の文化、どちらがより長い時間を経ているかを鑑みたらどうだ。罪の文化と恥の文化、どちらが戦争に明け暮れている文化かを鑑みたらどうだ。日本人は恥を忘れようとしている。と言って罪の意識をもとうとしているわけでもない。これでは文化が衰退して当然だというものだ。
近く本朝を伺うに、野党はあるときには「欧米ではこうなのに何故わが国だけ違うことをするのか」と与党を攻撃し、あるときには「それは欧米の言いなりではないか。独自性・主体性を欠いている」と与党を攻撃している。比較することは大切だけれど、そこから見出だすべきものがまるで見失われている気がしてならない。
どうも人間は気を抜くと自分の不幸を自慢したがるようである。そこに安価な快感を覚えるようである。自分のことを「忙しい」というのは感心できない。「急がされている」「急かされている」というのが「忙しい」ことである。ゆとりのないのが「忙しい」である。「心」が「亡」くなっているのが「忙しい」である。
自分について言うのであれば、「こぜわしい」くらいにとどめておくのがよいと思う。