2003-11-29 (土)

(カテゴリ[素敵な言い回し]の文書の一覧表示) 「繁を省けるが故に直ちに便宜なりと考ふるは最も危険なる思想なり」

僕は勿論仮名遣改定案の便宜たることを信ずる能はず。仮名遣改定案は――たとへば「ゐ」「ゑ」を廃するは繁を省ける所以なるべし。然れども繁を省けるが故に直ちに便宜なりと考ふるは最も危険なる思想なり。天下何ものか暴力よりも容易に繁を省くものあらむや。若し僕にして最も手軽に仮名遣改定案を葬らむとせむ乎、僕亦区々たる筆硯の間に委員諸公を責むるに先だち、直ちに諸公を暗殺すべし。僕の諸公を暗殺せず、敢てペンを駆る所以は――原稿料の為と言ふこと勿れ。――一に諸公を暗殺するの簡は即ち簡なりと雖も、便宜ならざるを信ずればなり。「ゐ」「ゑ」を廃して「い」「え」のみを存す、誰か簡なるを認めざらむや。然れども敷島のやまと言葉の乱れむとする危険を顧みざるは断じて便宜と言ふべからず。国語調査会の委員諸公は悉聡明練達の士なり。豈陽に忠孝を説き、陰に爆弾を懐にする超偽善的恐怖主義者ならむや。しかも諸公の為す所を見れば、諸公の簡を尊ぶこと、土蛮の生殖器を尊ぶが如くなるは殆ど恐怖主義者と同一なり。雑誌「明星」同人は諸公を以て便宜主義者と做す。(雑誌「明星」二月号所載)便宜主義者乎。便宜主義者乎。僕は寧ろ諸公を目するに不便宜主義者を以てするものなり。

芥川龍之介『文部省の仮名遣改定案について』より (抜粋・強調部は引用者による)

私は戦後の生まれだから、一貫して新字新仮名を教えられてきたし、使ってきた。国語の表記問題に触れる度に漠然とした背徳感を感じ、にわかに勉強をしたけれども、それは読むためであって書くためではなかった。

言語に対して厳格でいるということは、思考に対して厳格であるということだ。即ち自分の行動に対して厳格であるということだ。そう考えるとやはり種々の「改革」は本当に必要だったのだろうかというところに思いが至る。

感心するのは、戦前の教育を受けた世代の人たちが、新字新仮名でものを書くということだ。恐らく反感はあったろうし、何よりこれまで日常に行ってきたもを改めよと一方的に決められたわけだから、新たに学習し直すその労力だけでもかなりのものだったと思う(特に漢字)。

それに比べて、何と私たちの、あまりに些細なことをさも大事のように取り上げ、怒り狂って他人を、自分を攻撃していることか。

(カテゴリ[日常]の文書の一覧表示) 曾祖母について

私は曾祖母を知らない。わずかに同じ時間、この世に共に在ったのだが、その記憶がない。遺影しか知らない。母は畑に出ていた祖母よりも、むしろ曾祖母に育てられたそうだ。武家の娘だったらしい。そのためか、母を厳しくしつけたと聞いている。言われると、遺影もそう見えてくる。あのような視線を、凛としていると言うのだろう。

曾祖母はその言葉の中に、多く諺や慣用句を口癖のように用いる人だった。それが今、母の口から出てくる。辞書や教科書に載っているようなものもあるけれども、より生活に密着した、現実感ある言葉が非常に多い。諺や慣用句は生活の中で使われるものだから、辞書を引かなければ意味が分からないようなものよりも、聞いて直ちに了解できるものの方が優れていると言ってよい。

それらをできるだけ書き留めようと思う。これは遺さなければならない、伝えなければならない大切なものだ。

眼を醒まされた話が一つ。曾祖母は、食器の底を特に丁寧に洗うよう指導したそうだ。食器は伏せて棚に置くから、底が見える。食器の底を見ればその家が分かる、ということだった。

(カテゴリ[新しく知った言葉]の文書の一覧表示) 「優勝劣敗」

優れた者が勝ち劣った者が負けること。



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