調べれば分かるけれども。友人から電話が架かってきて「10万円で組むとしたらどのくらいのスペックになるか」と尋ねられたが、CPU 始め主要なパーツの相場が分からないので即答できなかった。半年近く日本橋に足を運んでいないし、動画圧縮規格は DivX 時代で知識が止まっているし。久し振りに調べたら、新しい動画圧縮規格がいくつか登場していた。全く知らなかった。ちょっとまずいなあと思った。
「書籍化する」「単行本化する」の意味で「出版化する」という表現をしばしば見かけるけれども、これはどうなのだろう。「出版」という語が既に「版になっていないものを版にして世に出す」=「本の形にする」という意味を持っているから、重ねて「化」を付けなくてもよい気がする。
似たような表現に「語彙力」「語彙数」「斬新的」などがある。
伊丹十三監督『タンポポ』で、商売敵の店のラーメンを偵察しに行った店員(宮本信子)が、その店の大将に「素人にうちの味が分かってたまるか」という旨のことを言われ、これに対して述べた言葉。小学生の頃に見たきりなので、表現は必ずしもこの通りでない。
文学も音楽も美術も、「誰にでも楽しめる」ことが最も尊ばれるべきでないかと最近思う。作ったり評論したりするならば知識は必要だろう。けれど、知識がないとまったく楽しめないようなものを表現物と呼んでよいのか。知識があればより深く楽しめる、知れる、味わえる、というのなら分かる。分からない奴は帰れ、のような高圧的な態度が多いなあと思う。自分も含めてである。
いつまでも素人玄人言っていないで、裾野を広げることを考えるべきだ。この意味において、童話・童謡・絵本作家はすごいと思う。
複雑に展開するものが苦手だ。把握できないからだ。把握できないことを楽しめるのはモーツァルトだけだ。ここのところの音楽の趣味、自分の表現を観察していてそう思った。パッヘルベルのカノン、G 線上のアリア、The Snowman's Music Box Dance(George Winston) 、Music Box Dancer(Frank Mills) 、対句法、反復法。どれも「形式」そのものは単純なものだ。また演奏楽器は何であれソロが好い。オーケストラも凄いことは分かるのだけれど、もうやめて、という感じ。色の好みも、このサイト全体のデフォルト配色はモノトーンだし、レイアウトも極力単純化している。「人間が処理できる情報量は多くない」という思いが強くあるからだと思う。その限界に挑戦するよりも、いかに神経細胞の帯域に余裕を持たせたまま情報を伝達するか、という方に興味がある。色や音に依存した表現は、どうしても脳に与える刺激が強くなりがちだ。そういうものを処理するのが最近苦痛だ。