しばしば、友人に「先日の『しゃべり場』どう思ったか」と尋ねられる。私はあの番組が嫌いなので見ていない。画面の向こうで話をしている彼らには有益であろうけれども、画面を隔てて議論に参加できない視聴者は何をすればよいのか分からない。話す場を他人に提供されて、議題も他人に提供されて、編集されて、電波に乗る。その必然性が見出だせないので嫌いである。生産性がわずかもない。「ストレス解消」と言えば何でも許されると思っている節がちらほら見えるのも、嫌いな点の一つである。
たまたま流れてきて音だけ聞いていたら、収録前の出演者のインタビューで、「10年後のあなたはどうなっていると思いますか」という質問に対して、「変わっていないと思う。考え方とか」という言葉があった。この高慢さが大嫌いなのだ。人の考え方なんか朝令暮改そのものだというのに。
NHK も変わった。最近の「みんなのうた」には、夢も希望も優しさも何もない。子供がかわいそうだ。
夜中に思いついた表現だけども、省みれば「四面楚歌」のことであった。
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体をもち
欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず
野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲を負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい
宮沢賢治『雨にも負けず』(適宜漢字・仮名遣いを改めた)
補足。「自分を勘定に入れずに」は、「自分を感情に入れずに」と解される場合もある。また、一般に「日照りのときは」とされている部分は、彼の手帳には「ヒドリノトキハ」とある。東北弁の「一人」と解することもできる。
桜菜の花小鳥のさえずり
蛍鈴虫小川のせせらぎ
稲穂秋風紅葉の色付き
枯れ野水仙舞い落ちる雪
英語が国際的公用語としての地位を不動のものにしていることは明らかだ。それはよいとして、日本語をないがしろにするのはちょっと待って欲しい。「日本語よりも英語の方が適している」と言うけれど、アメリカ主導の世界になろうとしているのだから、そこで用いられる言語が日本語よりも英語になってしまうのは当然の話だ。そういった利害関係なしに、言語としてどうか、を論じるべきだ。ただし、言語の比較は文化の比較になるので、慎重であるべきだとも思う。いずれにせよ、母国語を愛することは大切ではないか。自国を愛せない奴は隣国を愛せないのである。という発想は聖書である。
時間があると、2ちゃんねるの「お笑い板」の中の「7文字以内で笑わせてください」を見ている。センスのよいネタは数少ないけれど、時々すさまじい書き込みがある。例えば次のようなもの。現行の第3スレッドから転載。数字は発言者。
どうやら私は、修飾・被修飾の関係にある二語が、文法的に正しく、かつ現実的には起こり得ない事柄を示しているものを面白いと感じるようだ。
青空文庫 で公開されている図書データを 縦書きに変換するスクリプト を書いた。小一時間でやっつけたため細かい不具合はあると思うけれども、さしあたって読みたかった 芥川龍之介『歯車』 は きちんと縦書きに なって印刷されるのでよろしい。久し振りに生産活動をした感じだ。小一時間だけど。
サイトのコンテンツとして公開することにした。説明等は次に示す当該ページにて。
最近流行している腰の辺りに付ける小物入れ(名称が分からない)の代わりに魚篭をつけて歩く。廃れつつあるので実行するなら早めに。
忘れずに過ごしたい。