あらゆるものに「色」があるとすと、「平和色」は、未だ人類が知り得ない色。
補足。ユニクロのタートルネックの CM で「ピース」と言ってい(るように聞こえ)た。
広辞苑によれば、
- パラフレーズ【paraphrase】
- 語句の意味を別の意味でわかりやすく述べること。敷衍(ふえん)。
広辞苑第四版より (抜粋)
とある。
「面白いことないかなあ」「暇だ」といった言葉をよく耳にする。こういう精神が世界を駄目にする。面白いものを自分で作れ。金さえ払えば供給されて当然、という発想はとても危険。
高校の頃、同じ学校の女子生徒が雨の日の下校中、「傘ってもっと便利にならないのかなあ」と言っていた。私も小学校の頃にそう思ったことがあった。小学生なりに考えた。その後も傘の機能や構造について、幼いなりに・文系なりに考えた。その結果、「現在の傘の形状はかなり完成に近くて、改良の余地はない」という結論に達したので、それ以来傘に文句を言わない。
「ないかなあ」と思ったら「どうしたら作れるかなあ」というところに思いを至らせるべきだと思う。そして、一人の人間のできることには限界があるから、本を読んだり、映画を見たり、知らない土地に出かけたり、他人の話を聴いたりして外部から知識を吸収することが重要。そこから得たものを世界に還元することが重要。協力することが重要。協力とは、受動と能動がよく釣り合っているということ。
ウェブサイト「 Jahreszeit.com 」のタグライン。この言葉は、同サイトのコンテンツ「『明日』を考えるための一言集」にある、次の言葉によっているものだと思われる。
「暗黙知(Tacit Knowledge)」とは言語・文章で表現するのが難しい主観的・身体的な知。対する「形式知(Explict Knowledge)」は言語・文章で表現できる客観的・理性的な知。この2つの知の相互作用により、本質的な知が生みだされる。
ウェブサイト「 Jahreszeit.com 」のコンテンツ「『明日』を考えるための一言集」より野中郁次郎氏の言葉
The brilliant green の "There will be love there 愛のある場所" の歌詞より。
2年ほど前に、ウェブのニュースサイトで「デジタルディバイド」という言葉を知った。今夜の NHK のニュースが、これを取り上げていた。国連でも話題になっている、ということだった。「デジタルディバイド」とは、アスキー デジタル用語辞典 によると、次のように説明されている。
- デジタルデバイド Digital Divide
- デジタル技術(いわゆる IT )の普及に伴い、それを使いこなせるかどうかで二極化が起こった状態。社会問題として認識されつつあり、この問題を端的に「デジタルデバイド」と呼ぶ。
アスキー デジタル用語辞典 より (抜粋)
また、ジーニアス英和辞典の "divide" の項を引くと、
- divide
- (名詞)《正式》分割・(…の間の)違い・へだたり
- 《比喩的に》境界線
ジーニアス英和辞典より (抜粋)
とある。「情報格差」「知的格差」とでも訳せばよいだろうか。「知ろうとしない」ことは論外として、「知ることができない」というのは問題である。悲劇である。誰もが等しく情報を得ることができるような世界が望ましい。
ウェブの原点に立ち返る。ウェブが生まれるに至った経緯は、膨大な情報の中から有益な情報を効率よく選び出す必要があったことによる。この発想に基いて書かれ、現在のウェブの根本となったヴァネヴァー・ブッシュ(Bush, Vannevar)の論文を次に引く。1945年、"As We May Think" 、西垣通訳『思想としてのパソコン』所収。神崎正英『ユニバーサル HTML/XHTML』に引用されているものの孫引き。
今日の関心事の広がりや多様性に照らして、出版物が過剰だというわけではない。むしろ問題点は、われわれが記録を実際に利用する現在の能力をはるかに越えて、出版物がどんどん送り出されることだろう。人間の経験の総量がけた外れの勢いで増加しているのに、その結果として生じる迷路をすり抜け、今まさに重要な事項にたどり着くための手段は、横帆艤装船の時代に使われていたものと同じでしかないのだ。
ヴァネヴァー・ブッシュ "As We May Think" より (西垣通訳・強調部は引用者による)
この、人間が処理できる情報量には物理的な限界があるという現実は、殊にウェブで情報を得ようとするときに顕著になる。例えば私がウェブページを作成するにあたって大変参考にした ウェブサイト「Personnel」 のそふぃあ氏による 文書「何故左右マージンを小さくすべきなのか」 に、次のようなくだりがある。
私も以前は糞真面目に一字一句読んでいたのですが、最近は飛ばし読みというものの重要性をひしひしと感じています。時間は変わらないのに読むものが多くなったからでしょうか。あるいは既知の事柄が増えた為かもしれません。知っていることをくどくど説明している文章は読み飛ばしたいのです。
ウェブサイト「Personnel」 の 文書「何故左右マージンを小さくすべきなのか」 より (強調部は引用者による)
同じく参考にした、ウェブサイト「碧天蒼夜」 の真耶氏による 文書群「現実的な記述の為の XHTML1.1 入門」 にも、次のようなくだりがある。
現代では多数の書籍や論文が発表され、大量の情報が流れる情報洪水の時代となっています。我々が実際に利用する情報は、その中の少数しか有りません。しかし、我々の処理能力を遥かにこえて情報が流され続け、実際に利用したい情報 (金) と、どうでもいい情報 (砂粒) が混じってしまっています。
その中から、本当に欲しい情報 (金) を見分ける作業は結構大変なものです。本屋に行って欲しい本を探し出すのに苦労した経験はあるでしょう? 今日我々が探さなければならない空間は、本屋の比ではありません。或る意味、全世界に広がってしまっています。
そして、本当に欲しい情報を見つけ出しても、その中に書かれてあることをさらに発展させようとイメージを膨らませると、その膨らんだイメージの情報を探し出すために、また膨大な探索空間を探らなくてはなりません。このような関連情報が、ある方面だけに偏って存在していれば、その近くを探せばなんとかなるかもしれませんが、実際そうなっているわけではないのです。古代の美術を研究しようとしても、それだけで古代史やら美術の手法やら、我々の求める「金」は、様々な方面に分散して存在していることが分かります。
より便利に情報を得る為には、関連はあるが分散している情報を連想方式で扱う必要性が生じてきます。即ち、情報と情報をリンク (関連づけ) し、連想的に他の情報を探し出せるようにすることです。情報と情報がリンクされた文書のことを、ハイパーテキストと呼んでいます。
形容動詞の「きれいだ」の活用語尾を削除した「きれい」を単独で用いる用法がある。化粧品関連の商品で多く観察することができる。
まさに流行語、という感じがするけれど、この用法は残るのではないかと思う。文法的に誤りだ、とする向きがある。しかし、「形容動詞」という品詞を認めないとする説があることも忘れてはならない。考えてみれば「きれいだ」というのは、「きれい」+断定の助動詞「だ」が結合したものだから、「きれい」を名詞として捉えるのは、さほどおかしなことではない。
また、形容詞・形容動詞の活用語尾を省略する用法がある。これは、広く認知・容認・使用されている。感動・恐怖など、理性よりも感情が先に立つような場面ではこの用法が行われる。例えば:
などだ。これを形容動詞にも拡大して適用したものだと考えられる。したがって、例の「きれい」は、例えば次のように表記すると分かりやすい。
私が大阪に住むようになってまだ2年弱だけれど、ドラマなどで東京の人間が話す関西弁に強烈な違和感を覚える。特に次の二つ。
それぞれ、
の意味で言っているのだろうけれど、断定の助動詞「だ」を「や」に置き換えただけでは言い換えになっていない。現に、上に挙げた二つの言い回しが、関西人の口から出るところを聞いたことがない。大阪では、およそ次のような言い方が一般的である。
これらは関西人であれば広く女性も使うし、目上の人との会話でも用いられる。言語学の先生の曰く、「『じゃん』を聞くと、それだけでさぶい。」。
ところで、阪神タイガースの星野監督(岡山県出身)が言った「勝ちたいんや」という表現に違和感を覚えた関西人は多いのではないだろうか。「勝ちたいねん」の方がより自然だと思った。
非関西弁話者は、どうも「ちゃう」「やねん」「でっせ」「まっせ」を漫才などの職業語か、あるいは古語と捉えている節がある。現役でっせ。
a 要素は「リンク」ではなくあくまでも「アンカー」であるから仕方がないとは思うけれど、現実的に、次のような書き方は認められてもよいのではと思う。
<a href="http://www.google.co.jp/?query=keyword"><a href="http://www.google.co.jp/">Google</a>による検索結果</a>仕様上は、次のように書かなければならない。
<a href="http://www.google.co.jp/">Google</a>による<a href="http://www.google.co.jp/?query=keyword">検索結果</a>ブックマーク を更新した。DVD コピーに関する優れた情報が提供されている次の二つのサイトを追加した。
現在はかなりゆったりとしたテンポ――アンダンテくらいか、それよりもさらに遅い――で演奏され、そのためエンディングなどに用いられがちだけども、ジーグに続くこと、そしてこのジーグは8分の12拍子の軽快な曲であることから、パッヘルベルが意図したテンポはもう少し早いものではないだろうか。
ある言葉の言外を推し量れないことは悲しい。例えば、
という忠告は、次のような意味である。
普通の感覚を持った日本人は、そもそも関係の深くない相手に「忠告する」という行為自体をしない。それをさせてしまったのだから、よほど不快にさせたということなのだ。「きれいかどうかは人それぞれ」等と言う輩がいるけれど、そういう意味で言っているのではないのだ。また、「人それぞれ」にも限度がある。単なる強調の用途で「くそ」という言葉を使うことを私は認めない。悔しくて「くそ」という言葉を使うことを私は認めない。書いている今でも気分が悪い。排泄物の名称以外の役割を担わせることを認めない。これを認めることができる奴は頭がおかしい。言語感覚も、美的感覚も、道徳観も狂っている。関わりたくない。こればかりは議論もしたくない。
「いつでもいいよ」と期限を定められないと延々引き延ばす悪い癖。
困った話である。
$size = getimagesize("URI of image"); は、画像情報を取得し、変数 size に配列として格納する。$size[3] は、height="Vertical (pixel)" width="Horizontal (pixel)" という書式で対象の画像サイズを返すので、例えば次のようにスクリプトを書くだけで、簡単に画像のサイズを指定した HTML を生成することができる。
$img = "http://www.foo.com/img/bar.jpg"
$size = getimagesize("$img");
echo "<img src="$img" alt="Alternate text" $size[3] />"
ずいぶん前から見ていたけれど、その都度検索エンジンからアクセスしている。こういうサイト(使用頻度のわりにお気に入りに登録していない)はかなり多い。
Ruby の解説サイトはまだまだ少ない。