字のごとし。仏教語。旺文社古語辞典より。
『パッヘルベルのカノン』のコード進行は、三度下がり一度上がり、を三度繰り返し、三度上がり一度上がる。始めの二音で階段を下りはじめるような印象を与え、次の二音はそれが継続する。さらにその次の二音、ためらいつつも下へ下へ降りてゆくイメージを想起させる。また、ここでマイナーコードに入ることでわずかな不安をかき立てる。しかし、最後の二音は一転して階段の最初の位置まで駆け上る。それぞれ、出立、流浪、孤独、希望、のイメージである。実に見事に起承転結が示されている。八個の音でこの表現力、大したものである。
自分の良いと思ったものを熱心に周囲に「布教」する「信者」がいるけれど(うっかりしていると私自身そうなってしまいそうだけれど)、偉大なのは作者である。作者が参考にしたものである。身近な例で言えば、浜崎あゆみはすごい人間だけれども、彼女のファンであることは、何の自慢にもならないのだ。コバンザメはさぶい。
カゴメの「野菜生活」という名の野菜ジュースがある。ここ一週間ほど、終日左目の焦点が合わない・まぶたが痙攣するという症状に見舞われたため、努めて野菜を摂るように心がけたら治った。
相手が喜ぶことを積極的に考えるべきであって、自分がされたら困るから彼にもしないようにしよう、というのは考え方が消極的ではないか。自分が責められたくないから相手を責めない、そんなこと私にはできない。
戦争関連のデータベース。データベースを「注目サイト」と呼称してよいのかどうかはさておき。
タレントの新山千春。季刊誌『ホームシアターファイル』2001年冬号、飯田譲治監督との対談での言葉。
任天堂三代目社長、山内溥。全文は次の通り。
世間にはよく成功した人間を尊敬する人がいるけれど、それが僕には不思議でしようがない。たまたま運が良かっただけの人を、どうして尊敬できるんでしょうかね。
今さらながら、任天堂の目指している方向は正しいのではないかと思う。SONY とは正反対の路線でよいと思う。SONY がしようとしているのはゲームでなくアプリケーションだ。任天堂は純粋なゲーム屋だ。これでよいと思う。ふた言目には「双方向」「インタラクティヴ」「多人数」がもてはやされるけれど、ゲームは一人でするものだ。少なくとも、そういうゲームが多数であるべきだ。人間関係は学校・社会で、人間が築けばいい。計算機の力を借りて構築するものではない。引きこもりを助長するとか何とかいう意見もあるけれど、何でもかんでも誰かに寄り添っていないとできない方が遥かに問題だと思う。勉強を誰かと一緒にしますか。自分の人生を、誰か他人の歩調に合わせて歩みますか。
また男女差別だとか認識が古いとか言われるけれども。女性が立ったままペットボトルを直接口にしているのは、あまり美しい光景とは言えない。デリカシーがない。何も感じないのであればそれこそ救いようがない。
と、思った。
私がこの表現を初めて見たのは、ヴィダル・サスーンのシャンプーとコンディショナーの TVCM だ。うまいと思ったけれども、この表現は所詮斬新さを狙った一過性のものだった。TV で「緊急出演」「緊急討論」などと言いながら、あらかじめ収録され編集された内容を放送している。嘘はよくない。自分の言語感覚に自信がない人なのだなあ、と思ってしまう。雑誌に載っているコーディネートをそのまま身に纏うくらい没個性的であることに気づくべきだ。最近特にそう思う。服装には皆とても敏感なのに、言語に対してあまりに鈍感である。左脳がダサい。