心は形がなく、目に見えず、曖昧なものだ。なのに、か、だから、か、私たちは古くから「こころ」を大切にしてきた。
どんな辞書でもいい。「心」「気」「思い」の項を引いてみると、とても多くの言葉があることに気づく。これらが、私たちの生活になくてはならないものであることに気づく。
どんな場面でもいい。私たちが遣っている言葉を観察してみると、心配りも気遣いも思いやりも、薄らいでしまっていることに気づく。心が置き去りにされてしまっていることに気づく。
「このような悲惨な出来事が繰り返されてはならない。」。それは分かる。しかし、それと、慰謝料とは名ばかりの汚い金を巻き上げることとの関連は何か。かけがえのないものを金でかけがえることの正当性は何か。
傷つけられても傷つけず、騙されても騙さず、無視されても無視せず。相手がああしたから私もこれくらいして当然だ――。小学生の喧嘩か、という話である。その平等は真の平等ではない。幸福を生み出す平等ではない。不幸と憎しみを増やすだけの、愚かな愚かな利己主義だ。
世の中には確かに「仕方ない」としか言いようのないことがあって、自分ひとりの力では、あるいは人間の意思では、本当にどうしようもないことがあって、これは諦めるよりほかないのだけれど、あまりに簡単に諦めすぎていはしないかと思う。実は何か働きかけることができるのにそれをしないのは、気持ちが悪い。できることをしないと決まって後悔するということは、誰だって知っているでしょう。ただじっと見守るだけ、というのも一つの方法で、必ずしも動的なものだけを言っているのではないけれど、いささか冷ややかでないかと思う。無表情で、無関心で、無感動であることが格好の良いことならば、私はその価値観を哀れむほか仕方ない。
補足。主語・客語の省略箇所は意図的なもの。
ごくごく表層的な、表現の上での、取るに足らない小さな矛盾を取り上げて、さも大問題のように騒ぎ立てる行為を馬鹿だというのだ。論理的に矛盾するかどうかの判定は計算機にさせればよい。尊い大脳は、言葉の奥にある真意を読み取るためにあるのだ。文字を読むことは機械にもできる。人間でなければできないことは何か。行間を読むことである。理屈で説明のつかない「心」を扱うことである。私たちの生活から、遍く全ての矛盾が追放される日が来ることはない。あらゆる矛盾が消え去った世界には、生の実感などないに決まっている。
意味を考えろ。
心ない称讃は、時に心ない批判よりも深い傷を与えるのであり。