2004-01-29 (木)

(カテゴリ[国語]の文書の一覧表示) 誤った文語体とメディアと古典離れ

私が日本の古典に興味を持ったのは、その文法の簡明さ、そこからくる理路整然とした文体、また言葉そのものの流麗さに惹かれたからだった。もちろん始めは分からないことが多かった。しかし、TV アニメや漫画などで、宝の地図や言い伝えなど、文語体にはわずかながら触れていた。これが本物の文語体への敷居を低くした。

今になって思うと、当時の「子供向けの文語体」は、現在のものと比べるとずっと正確だ。正しく言えば、現在の文語体があまりにひどいのだけれど、アニメーションやコミックにある文語体は、その文法・語法に初歩的な誤りを含むものが多い。

最も多い誤りに、「過去の助動詞『き』の活用形」がある。例えば次のような文を仮定する。

  • 昔、海の果てに鬼が島という島があった。

これを文語体にすれば

  • 昔、海の果てに鬼が島といふ島あり。
  • 昔、海の果てに鬼が島といふ島ありけり。
  • 昔、海の果てに鬼が島といふ島ありき。

のいずれかになる。「あり」終止形と、伝聞回想過去「けり」、直接体験過去「き」では厳密には意味が違ってくるけれど、どれも「あった」という文の趣旨を伝えるのには充分である。ところが、最近の無学な作家は、次のようにしてしまうのだ。

  • 昔、海の果てに鬼が島といふ島ありし。

過去の助動詞「き」は、その大半が体言に係る。「在りし日」「見し人」など。現代国文法においては、連体形と終止形の区別がなくなっているので、これらの用法から連体形「し」を終止形と勘違いしたために起こる間違いだ。

こういうレベルの低いことばに囲まれている子供たちは本当に不幸だと思う。大人たちの使うことばの質が極めて悪い。これは非常に危険な現象だと思う。

原則として、句点の直前に「し」が来ることはあり得ない。ところが実際に古典を読んでみると、句点の直前に「し」が散見される。これは係り結びが成立しているからである。したがって、どうしても「ありし。」と言いたいのであれば、例えば次のようにすればよい。

  • 昔、海の果てに鬼が島といふ島なむありし。
  • 昔、海の果てに鬼が島といふ島ありし。

最も自然(?)なのは次のような表現か。

  • 昔、海の果てに鬼が島といふ島ぞなむありける。

古語(文語)が難しいだの宇宙語だのと非難する前に、自分たちが文法的整合性のないことばを遣うから、後世の人が混乱するのだということをきちんと認識すべきだ。私たちの遣っていることばも、いずれ古典になるのだ。「先のことを考える」というのはどういうことか、本当に「先」を考えているか。自分が死ぬまでのことしか考えない年配者を批判する、自称「若い世代」は多いはずなのに。整ったことばを。「整う」「端正」という文字が示すように、「正しい」とはそういうことなのだ。

(カテゴリ[ウェブ]の文書の一覧表示) (カテゴリ[日常]の文書の一覧表示) "All Rights Reserved"

All Rights Reserved 。見慣れた著作権表示だ。「このウェブサイトにあるすべてのリソースの著作権は、保護されています」くらいの意味だ。しかし、これを明示しなくても著作権が自然発生することは周知の事実。慣例的に著作権表示をするのを悪いとは言わないけれど、権利だけ主張して義務を負わない態度には感心できない。

善人ぶるわけではなく、どうも私は、 "Rights" だけを表示しておくのは落ち着けない。やはり Rights を表示するのなら Responsibilities も併記すべきではないかと思う。と言うか、書いた文書の末尾に文責を明記するというのは、ものを書く上での最低限の礼儀ではなかったのか。ああ。

(カテゴリ[日常]の文書の一覧表示) 白鷺物語

岐阜県の温泉の土産売り場に行くと、ほぼどこでも「白鷺物語」というお菓子を売っている。クリームを固めのウェハースで挟んだものなのだけれど、これがどえらいんまい。聞くところによると、信州にも「雷鳥の里」なる同系のお菓子があるらしい。年に何回か、無性に食べたくなる。

(カテゴリ[日常]の文書の一覧表示) ナツメ球

円形蛍光灯の中央部にある小さな補助灯、販売名は「ナツメ球」と言う。我が家では「小玉(こだま)」と呼んでいたが、友人たちに訊いてみると様々な呼び方が出てきて、すっかり「小玉」に自信をなくしてしまった。以下その例。

  • 小さいの・ちっちゃいの・ちっさいの
  • 小さいやつ・…
  • 小さい電気・…
  • 豆電気・豆電球・豆球・豆
  • オレンジ

不良っぽい子が「おい、俺、小さい電気点いてないと寝れんから消すなって!」などと言っているのかと思うと笑える。それから、テレビのリモコンのことを「チャンネル」と呼ぶのはどうかと思った。

(カテゴリ[素敵な言い回し]の文書の一覧表示) 「胸が張り裂ける」

この切ない表現を超える表現は、当分の間出現しないだろうと思う。

「切ない」の語源が「刹那い」だったら切ないなあと思った。

(カテゴリ[素敵な言い回し]の文書の一覧表示) 「溶けちゃう」

詳細を書くとまずいので察してください。友人からの伝聞。某 AV(Audio Visual ではない方) 監督が、この言葉を最初に口にした女優を褒めて「これは名言。」と言ったそうな。なるほど名言である。

(カテゴリ[日常]の文書の一覧表示) 「買い食い」

読んでいた本の中に「買い食い」という文字があった。以前に「待ち合わせ」について同じようなことを書いたが、昨今は「買い食い」ということばをめっきり聞かなくなってしまった。

私が小学生の頃、我が家は、ことに言葉遣いと食べ物とお金に関しては厳しかった。それで「買い食いしちゃだめだよ」なども「外でものを買って食べちゃ…」といった具合であった。しかしそもそも、お金を持たせてくれるようになったのが小学校四年生くらいからだったから、買おうにも先立つものがなかった。お金の遣い方をよく知らなかったが、別段それで不自由もなかった。祖父母と父の合議の末、必要と結論されたものは買い与えられた。

この「買い食い」ということばに、独特のスリルを感じるのは私だけなのだろうか。小さな子供が「チロルチョコ」あたりをこっそり買って神社で食べる。誰かに見つからないかと気にするから、すぐに飲み込んでしまう。塊のまま胃に入ってゆくチョコレートの感覚が、私にとっての「買い食い」だ。いくらお菓子と言えども、ものを食べるときには食卓で手を合わせて食べるのが当然だったから、外で食べるだけでも気分が落ち着かなかった。私は今でも、青空の下で飲食をするのがあまり好きではない。

この頃の子供を見回すに、塾だか何だか知らないけれど、驚くほど遅くまで出歩いている。小学生が夜七時以降に一人で歩いている姿を見ると、未だに心配になってしまう。当然財布も持っていて、コンビニで買い物をする子供の姿も珍しくなくなった。昔は「買い食い」は一箇月に一回あるかないかのことだったけれども、今や、一日三食のうちの一食は、「買い食い」が占めているのではないか。時代の変化と言えばそれまでかも知れないが、少しばかり寂しい思いがする。



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